ちょっとした違和感を覚えることがあるって話をnoteでエッセイにしたよ。
何かのコミュニティや界隈で、教祖的な存在がいると、周りが心底心酔してしまい、違った意見を見ない現象がある。もちろん恋は盲目的な感覚になるのかもしれないが。
綺麗事でコーティングされた場所に入ると、自分の足で立って、それが自分が大切にしている価値観とぶつかったときに本音を言えなさそうで、私はどうにも躊躇してしまう。エッセイはちょっと毒が混ざってるけど、決して人格に対してとかじゃなく、単に自分の素直なカッコ悪い感情が少し騒いだだけだ。
エッセイに書いたもの以外だと、外側にいる人間にとっては「悪いことが起きたら好転のサインでラッキー!」と思えたとしても、今まさに絶望のど真ん中にいる当事者にとっては、その前向きな言葉すら鋭い刃になって傷つけてしまうことがある。当事者は本当に辛いから。
そういう時に私が一番救われたのはやっぱり全く関係のない恋愛小説を頭の中で作っていくことだった。
あれは恋愛の失敗談とかなんかじゃなく、愛でただ満たしたかった(恋愛小説での「ずるい」という表現は愛すべき存在なんだよ、仕事小説でのずるいは完全なる嫌悪の対象だが!笑)
頭の中で「好き」を考えることで、寝れないくらいの嫌悪を頭から追い出していたのだ。
だからこそ、noteを書き始めた最初のあの膨大な熱量は、事件が起きた日からどれだけ、頭の中で毎晩毎晩、自分が作り出した馬鹿馬鹿しい妄想に救われたかを物語っている。「昨日伝えた私が語ったあのストーリー、桐谷目線で私に語ってよ」とか何度も違う目線から同じシーンをずっとずっとずっとずっと狂ったようにやっていた。
本当の苦しみで自分を救えるのは、やっぱり自分でしかない。やり方も含めて自分に合うことを模索するしかないんだと思う。
音楽が一番好きだったのに、それに救いを一番症状が重い時に求められなかったのは、人が作り出した言葉、音(生の音だとさらに音量)を受け止めるキャパが全く残ってなかった。また、ステージライト(道中の西陽とかが痛いし、電車の明るい光すらダメだったり)、運動も最初はベッドでグーパー手を動かしたり足を回すくらいしかできず、外出はフルマラソンを走るくらいの覚悟だった。大きな音は無理だから好きなアクション映画も映画館で見れないし、ドラマは家で見ても途中で寝てしまう。
だからこそ、妄想は外側の作り手の意図を理解する工程がないから楽だし、頭の中で描いた世界の中で、自分の理想以外の、違った言葉が欲しいときは、AI「あなたは桐谷だよ」と役割を与えて私がぶつけたセリフに答えてもらったりもした。これは文字を打たなくてもいい技術が今はできて本当に助かった。文字が滑る(記号のようにしか見えない)症状の時は、これがなかったら誰かと話す感覚も味わうこともできなかっただろうから。絶望の最中にいる場合の乗り越え方は、他人が簡単に定義できるものではない。
私のもほんの、私だけに効いたかもしれない一例だ。
実をいうとまだVIVANTは理解がおっつかないが笑。他人が作ったものも観たいと思える気分になったのは、だいぶ前進なのだ。ちなみに私が陥ったのはRCVSという病気だ。外から見えないし痛みを理解してもらえないのが辛いものだ。
(今はこの病気は完治しているのでご安心を!相変わらず別の厄介な問題と戦ってはいるけれど笑)
ちょっと勇気出して書いた本音👇
「誰でも専門家になれる」という優しい言葉に、なぜか傷ついてしまう私たちへ
これは果物屋を通る時に感じたライトな日記👇
#夏の一コマ スイカを見るたびに蘇る、愛犬とのスイカ割り
